仲田絵美の「美しい速度で」に寄せて

そのポートフォリオには、繰るというひとつの方向を示されながらも、うねるものを感じた。展示は渦のようだった。大小ある写真が互いに接しながら、混沌として鮮やかに渦を成していた。ところどころに現われるセルフポートレートらしき写真が、無防備に何かを受け止め、何かに対峙するようで、その眼差しや姿態を覗き込んでしまう。そして明らかに時代の違う写真の複写が、その渦の中で他と並び息づいていた。

他界した母の「写真」を撮ることに仲田は執着する。スナップ、集合写真、レントゲン写真、遺影。母の写真の存在はときに母そのものでもあるだろう。母がいた痕跡、赤ん坊の自分を抱いていた証。一方で母の「写真」を撮るという行為は、その対象が母そのものではあり得ない、絶対的な距離を伴う。母はかつて写真の中で時間の流れを止められ、しかし同時にそれこそがいつか訪れる最後を小さく予言していた。写真は、時間をとどめ得ないことを逆説的に物語り、生と死とを含みもつ。仲田がその写真にカメラを向けるとき、写真の時空を引き寄せつつ、抗い難い隔たりを共に撮影しているわけで、さらにそこに立ち現われる姿ーーもう一度生き、もう一度死ぬーーそれを見据える強さを思わないわけにはいかない。

そして、仲田は黒いソファに下着姿で座しながらこちらを見据える。その眼差しは母のポートレートに生き写しであり、彼女が意志をもって写真に(像に)なろうとしていることを示している。「美しい速度で」において、仲田は写真そのものと否応なく向き合い、必然的に生や死や時間を混然と抱え込んだ。それは、身のまわりのことを撮影したなかに見え隠れする生死というような位相とは明らかに異なるものだ。

たしか前作には、母が撮った仲田絵美の写真があった。裸身の子ども。それとどこか似たポーズで横たわりながら、いまその眼が見返すものは母ではない。誰でもない、どこでもない、その先にあるものに対峙しようとするこの写真家への信頼は大きい。

 

姫野希美(赤々舎代表取締役・ディレクター)
「1_WALL」グランプリシリーズパンフレットより